1、中国戦線の体験を語る              唐 政顕さん

はじめに

 石川県金沢市金石にお住まいの唐政顕さんは、1920(大正9)年7月29日に生まれ、調査当時の年齢は95歳。生まれも育ちも金石である。
 政顕さんは、本多町の金沢第一中学校卒業後に中島航空(中島飛行機株式会社)へ入社し、生計を立てた。その後軍から召集を受け、1943(昭和18)年に関東軍(所属は満州第453部隊)に入隊した。入隊後は英語とロシア語を習い、軍の中で通訳となる。
 その後政顕さんが転属した支那駐屯歩兵第二連隊(政顕さんは「麻布二連隊」と呼称)は、「またも負けたが二連隊」と、弱小部隊と他の部隊から蔑まれていたという。第二連隊が所属していた第27師団は、日中戦争勃発以前から存在していた支那駐屯軍が数回の改編、改称を経た師団であり、当時は第一期大陸打通作戦を成功させ、信陽に向けて行軍中であった。
 政顕さんには、当時自分が初めて経験した戦闘が鮮明に記憶に刻まれていた。「撃ってはならん」という命令に反して仲間の一人が発砲し、戦闘状態に突入した。政顕さんの隣にいた友人は、激しい銃撃戦の中被弾して亡くなった。彼は政顕さんがこの目で目撃した初めての戦死者であり、前のめりの状態で被弾したにもかかわらず、後方にひっくり返って倒れた姿が強く印象に残っている。大正8、9、10年生まれは、こうして実際に戦地で仲間が死んでいく姿を目撃した者が多いと政顕さんは語る。激しい戦闘で、100人以上いた隊の半分以上が死んでしまった。当時24歳の政顕さんの周りでも、若い仲間が次々と死んでいった。また、戦闘以外でも、食べ物不足でやせ細っていき、栄養不足で倒れる者も多かったという。
 軍は戦力が尽きながらも南下し、1945(昭和20)年2月、遂川(現在の江西省遂川県内、政顕さんは「ツイセン」と呼称)の飛行場で戦闘が起こる。この時、既に日本軍は中国側から誘導され、「袋の鼠」に陥っていたという、政顕さんにとって印象深い戦闘であった。
 その後、第二連隊は江西省南部における三南作戦や、江西作戦などを遂行し南京に向けて北上していたが、途中で終戦を迎えた。戦争が終わったことは風の便りで聞いてはいたが、玉音放送は聞いておらず、本当に戦争が終わったのか、勝敗はどうなったのかはわからなかったという。半年ほど現地に滞在した後、一ヶ月ほどアメリカの移送船に乗り、1946(昭和21)3月に博多に上陸、翌月に帰宅した。
 復員後は結婚し、生まれ育った金石の地で建築関係の仕事に就いた。政顕さんは「親の名を後世に残す」ことに特別な感情、熱意を持っている。これは、小学校時代に教師から教えられた孝行の精神に由来する。金石小学校の建設候補地にあった政顕さんの祖父の碑が、土地を明け渡すことで金沢市に引き取られた。市によって祖父の名が記された碑が管理されることで、その使命が果たされ、肩の荷が下りた気持ちになり、元気に生きることができたという。                (新海誠航)

政顕さんの証言

政顕 (政顕さんが所属していた第二連隊の連隊誌(『支那駐屯歩兵第二聯隊誌』(明徳印刷出版社、1977))を見ながら)ほう。ここに長台関(中国河南省信陽県)のあれが書いてあるがい。これ、どなたがお書きになったか知らんけれども、長台関はひどかったぞ。雨に打たれて大変なことやった。がたがたとみんな死んでいった。これを思うと涙出る。なんでそんな馬鹿な、長台関まで行かねばならなかったかなと思うわ。「長台関」という名前だけでも、知らん人はたくさんおるわ。「長台関」の名前を知っとる人は何人おる。おそらくわし、そうやと思う。これはわしの考えやさけに、皆さんどう思われるか知らんけれども、本当に「長台関」という名前を知っとる人が何人おるかっていうことや。・・・ああ、長台関の戦いを思うと涙出る。

- 前回、政顕さんに長台関でのお話をお伺いしたとき、政顕さんにとっての初めての戦闘行為だということをおっしゃっていましたね。

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政顕 ほうや。初めての戦争やし、北支(中国北部)における初めての戦いやった。あのときはたくさんの人が亡くなった。

- 政顕さんのお隣にいた人が「銃を撃ってはならない」と命令だったにもかかわらず、銃で撃たれて亡くなったという話が衝撃的でした。そのときの話をもう一度お聞かせいただけませんか。

政顕 あのときのことを考えると嫌になる。かわいそうやったわ。あんときね。「撃ってはいかん」と言うてなんしたけれども、向こうから撃ってきたら仕方ない、撃ったがや。

- (前掲『支那駐屯歩兵第二聯隊誌』には)長台関での激しい冷雨の話が書かれていますが、ここに書かれていることは実際に起きたことですか。

政顕 長台関の雨にたたかれ、敵が撃ってくる弾にたたかれて、ひどかったですよ。長台関で初めてわしの知った人が戦死したですよ。かわいそうに。戦死した人をどうするのか、どういうふうに始末をするのかということを知らなかった。前に上海戦(注)という戦争があって、その上海戦に行ってきた方がわしに言うたがは、「この腕を一本持って帰れ」。かわいそうにと思って。わしは初めて、戦死したわしの友達の腕を切ろうと思って。骨にするがに。そうして、その腕のここを取ろうと思ったら、切れなかった。「おまえ、こんなとこを切っても駄目ながや。ここ(肘の関節部分か)を切らんなん」。ここを切ったら簡単に外れた。ほいでわしは、この腕を、馬の鞍の鞍嚢(鞍の左右に付けたポケットのようなもの)の中へ入れて、何日間も戦場を持ち歩いた。それで、いつだったか知らんけれども、暇になって、それを焼いて骨にした。とにかくこんだけ焼くがに半日以上かかった。そんな1時間や2時間じゃ焼けない。そういう覚えがあります。ほんでその骨をここへ送ったけれども、そのあと、どうなったか知らん。名前をみんな書いて、そこへ送りましたよ。それだけは間違いないわ。わし、書いて送ったもん。

- その方は戦友だったんですか。

政顕 戦友みたいもんや。同じ隊やもん。

- 出征する前からの知り合いではなくて、出征してから知り合った。

政顕 戦地で一緒になった。

- 以前われわれが最初に訪問させていただいたとき、敵と撃ち合いになって、すぐ隣にいた人の頭に弾が当たって亡くなった話を聞きました。前のめりになっていた人が 弾が当たったことでこうなる(後ろへのけぞる)。すぐ隣にいた人に弾が当たって死ぬっていうのを間近にご覧になったという話がありましたけれども、あれは長台関の戦闘でしたか。

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政顕 ほうやったと思うぞ。そんときにね、鉄兜をかぶっとった者は、ほとんど邪魔はなかったけれども、弾が鉄兜へ当たらんと体に当たった人、それがこうやって弾が体に当たったときに、こうやってひっくり返るわいね。小学生のとき、木口小平が弾に当たって死んだがを先生から教わったわい。こうやってひっくり返ってなんする写真があったわい。あの写真は、ただ出とった写真でない。本当の写真を写したがやなと思った。ただ人間が描いた絵でないがや。本当の写真がこれやったなと思った。その人が亡くなったときに、あれと同じ格好で死んでん。木口小平がこうやって亡くなった写真があった。ああ、ひどいもんやな。こんな写真を誰が撮ったがやとなと思ったわ。学校の教科書に写っとったもんの。「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」(『尋常小学校1年生用修身教科書』より)というのがあったさけに、その写真が、ああなるほどな、これは本当の写真やと。人間が死ぬときは、ああなって死ぬ。ひっくり返って死ぬんじゃ。わしは見たもんの。わしの目の前やったもんの。ぱかんとひっくり返った。そういうことだけはね、はっきりと脳裏に写っとる。あとは何もないわ。

注)上海戦…1937(昭和12)年8月13日に中華民国軍が上海の日本人租界を攻撃し、それに日本軍が反撃を加える形で行われた戦闘
注)写真は能川泰治が撮影した。


聞き取り参加者の感想

 今回お話を伺った唐政顕さんは、実際に兵士として戦地に赴き、激しい戦闘を経験されている。政顕さんが戦争を体験したのは70年以上前のことであるが、当時のことを鮮明に覚えていらっしゃり、毅然とした様子でお話しされていた。しかし、戦地では自分の隣にいた人が死ぬ場面を目撃し、自らもいつ命を落とすか分からない状況で生きていたという話は、私にはとても信じがたいことであった。これまで学校の授業やメディアを通して触れてきた戦争体験は、自分とはかけ離れた別世界の話のようであったが、実際に体験した人と向き合い、その人の声を聞き、表情を伺うことで、紙面や画面を通して知る以上に戦争の恐ろしさや悲惨さを体験できたように思う。
 終戦の知らせをどのように知ったのか、という質問に対して政顕さんは、「風の便りで日本が勝ったと聞かされたが、自らの所属する部隊の状況から勝ったとは思えなかった。」という。その後、中国で「万歳」の声を聞き、終戦を知ったそうだ。このとき政顕さんは、日本に帰り、両親に会うことができるということが一番の喜びであったともいう。この政顕さんの喜びは、兵士としてではなく、一人の人間としての喜びであったのではないだろうか。わたしが知る終戦の様子というと、天皇の玉音放送を聞き、敗戦を嘆く人々が思い浮かぶが、兵士として戦地に赴き、誰よりも死を身近に感じていた政顕さんにとって、終戦、そして日本に帰ることは、何よりの願いであったのかもしれない。そしてもう一つ注目すべきなのが、政顕さんが帰国したのは1946年の3月か4月頃だということだ。終戦とされた8月15日から、実に半年以上経過しての帰国であった。政顕さんのように、戦争が終わったという事実そのものを曖昧にしか知らされず、故郷に戻ることができなかった人が数多くいたということを踏まえると、8月15日を以て終戦の日とする理解は一面的なのではないだろうか。
(坂槙 美紗恵)

追記1)唐政顕さんは、2015年10月10日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
追記2)唐政顕さんの聞き取り記録は、金沢大学日本史学研究室編『かたりべ』の第八集に収録されています。